遊具が消えた!

毎朝の愛犬の散歩で、幾つかの公園をハシゴします。
1〜2年程前から、公園の遊具の撤去が始まり、遊具の無い広々とした公園が急増しました。
個人的には、公園よりも原っぱで遊ぶ事の方が、創造力も発揮されて、子供達の成長にはプラスだと思っているので、ゴテゴテの遊ばせてくれる遊具は無くても良いと思います。
しかし、画一的に整備して、遊具の種類で個性を持たせられていた公園は、遊具の撤去で、どの公園も画一化された側面だけが残ってしまい、増々変化の無い面白くない空間になってしまったようです。
確かに遊具が撤去された後の公園は、怪我のクレームも減って安心出来るのかも知れませんが…(市としてはネ)。

人間は(生命は)楽な方向へ進む生き物です。
空間や環境も、安心できる既に知っている場所が好まれます。
そこでは危険な事は予見でき、どこが快適かも知っているからです。
ですから、コンビニもファミレスも各種チェーン店も、空間の画一化を行ないます。
生き物は変化を嫌います。
快適で変化の無い環境での、眠るような生活が、生命の理想型かも知れません。
例えるならば、母親の胎内環境のような…。

環境に変化が生じた時、その変化が大きい場合は生命の危機になります。
生まれて来た赤ん坊も、そのまま放っとかれると死んでしまいます(あたりまえです!)。
しかし、対応し、克服できるレベルの変化は歓迎です。
これは、進化や成長と呼ばれます。
適度な刺激やストレス、死なない程度の困難を経験し、克服すると、生き物は大きく強くなります。
そして、それは達成感のような喜びになります。
これを繰り返すと、そう簡単には死なないように成長します。
その過程では、多少の怪我も歓迎です。
ばい菌も、死なない程度には必要でしょう。

昨今、私たちの文明は、心地よいものを追求する事が、非常に得意になってきました。
子供達(大人もか?)が夢中になるコンピューターゲームなども、その最たるものです。
プレイヤーの脳は、決して危険の無い画一化された、仕組まれた世界の中にあり、身体は安全で居心地の良い空間にある。
ゲームの中の刺激は信号のみなので、脳にだけ届き、脳を心地よく刺激します。
実体の無い刺激には、当然、身体に対する感覚は浅く、身体もまた心地よい空間に居ます。
決まった入力に対して、一定の出力を行なうのは、原生生物から行なわれている、生命の得意分野です。
身体は心地よい環境で、何となく成長しているような気になる脳への刺激を受け続ける。
こんなに居心地の良い世界は仲々無いでしょう。
やはり、やりすぎると心身の成長に良くないでしょうね…。
他にも探すと、快適過ぎるものごとが沢山見つかるはずです。

話が少し脇道へ行ってしまいました…。
遊具が撤去された公園や、居心地の良い胎内など、刺激の少ない安心できる世界は、成長の楽しさを知ってしまった身には、少々退屈な環境でしょう。
変化に富んだ、何が出て来るか予想のつかない原っぱは、リスクも有りますが、やっぱり楽しいと思います。
公園で見ていると、子供達は平らで広い真ん中の空間よりも、隅の方の植え込みや木々の有る方で遊ぶ事が多いようです。
大体の場合、そのような所は入ってはいけない所とされていますが…。

美術の作品についても、同じような事が言えます。
画一化された方向には、居心地が良いが、退屈がついてまわります。
適度な変化や破壊的な要素が有る方が、観ていて楽しめます。
表現する事とは、元々、個々の違いを見せる事です。
小さな違いを大きく知覚できるようにしたり、大きな違いを大きな物差しで暴力的に表現したりと、そのやり方には色々有りますが…。
デッサンでも形や質感、空間感の違いに着目すると、変化に富んだ作品になるでしょうし、イメージで描く作品でも、描く側が多くの違いをイメージできると、リアリティが増すようです。

今回は長文になってしまい、失礼致しました。
最後まで読んでくれた方、ありがとうございました。

東戸塚アートスクール 鐵岩 隆